わたしのあたまのなか

わたしのあたまのなかの言葉を書きたい時に書く場所。覚えておきたい出来事やお出かけの記録、おいしいものについてもよく書きます。

2024年1月1日のこと

※地震のこと、怪我のことが出てきます※

 

 

朝、たらふくお餅を食べて、そのあと夫と2人で和室の部屋の布団に転がっていたら寝てしまっていた。

今年は実家にも義実家にも行かないので、家族4人自宅でゆっくりのんびりしよう、と、決めていたのだ。息子たちは隣のリビングで2人で仲良くゲームをしていた。

11時前に目を覚ました時「うー」「うー」と低い声が聞こえた気がした。

息子たちに何かあった?!と、まだ隣で少しウトウトしていた夫に「なんか低い声が聞こえる!」と声をかけて、すぐ隣の部屋に行くと、私の勢いに息子たちはキョトンとしていた。

その時、夫の方から「救急車!!お向かいのおじいさんが倒れてる!」と聞こえた。

その低い声に「まさかお向かいさんが?」と、ピンときた夫が、外に面している窓を開けて、お向かいのお家を確認をしたら、ちょうど倒れているのが見えたという。

その一人暮らしのおじいさんは、郵便受けを確認しようと外に出た時に足を滑らせて転んだらしい。頭からは大量の血が流れていた。(あとから駆けつけた娘さんから、おじいさんが血液をサラサラにするお薬を飲んでいたためにたくさんの血が出たと聞いた)

結局、救急車で運ばれたが、骨や頭の中に異常はなかったらしく、その日の夕方には病院から帰ってきたとあとから聞いた。

夫の部屋着やスニーカーは血だらけになってしまったが、洗えばいい。

数年前まではそのおじいさんの路上駐車のせいで、我が家の車の出し入れがしにくく、ほとほと困らされたが、命が無事で良かったと思った。

さて、救急車を呼んだ時、救急隊員の方から「このあと警察が事情を聞きに来ますので、発見した時の状況など、説明をお願いします」と、聞かされていたので待っていたが、一向に警察が来ない。おじいさんの家の門に一応メモを残して家で待つことにした。

いつまで経っても来ないので、そのおじいさんの娘さんが諸々確認してくれたところ、どうやら警察は来ないらしいとわかったのは、15時を過ぎたころで、その時になってやっとバタバタの区切りが一旦ついて、みんなでホッとすることができた。

zfinchyan.hatenablog.com

(前記事は、この時に書いた)

 

やれやれ、と、リビングで家族揃って再びのんびりしてそれぞれ温かいコーヒーやお茶やお菓子で落ち着いたあと、

夫と息子(11)はリビングで共にゲームを、息子(8)はトイレに、私はキッチンで洗い物をしていた時だった。

夫が突然「地震か?」と言った。

うちの家は古い家屋なので、地震の時は、たいてい窓がガタガタと大きく鳴り響く。しかし、窓から音は聞こえない。私はめまいのようなものを感じたが、立っていたせいもあってか「揺れている!」とはハッキリ感じなかった。

キッチンからふと玄関の方に目をやると、壁にかかっている車の鍵や家の鍵が、ゆらゆらと大きく揺れているのが見えた。

東日本大震災の時と同じ揺れ方やと思った。

きっと震源地はここから離れている。

でも、そこは大地震にちがいないと感じた。

 

夫が息子を抱きしめるのが見えた。

私はこの地震の大きさを理解しようと相変わらずキッチンに突っ立っていた。すると、トイレから息子が「揺れてるー!立てへんー!」と叫ぶのが聞こえた。

ハッとしてすぐさま息子のいるトイレに駆け寄り、体を支えた。

不気味なくらい静かで長い横揺れが続いたように感じた。

地震の時は、高い家具が一切ない和室に逃げるように教えているので、息子たちは和室の布団にすぐ潜った。

夫が「ストーブは消した!」と叫んだ。

私も和室へ行こうとした時、リビングでつけっぱなしのテレビがNHKになっているのが目に入った。きっと夫が地震直後にチャンネルを合わせていたのだろう。

日本海に面している地域全てに津波警報と津波注意報が出ている様子が映っていた。

「あかん、大地震や」と、とっさに声が出た。

「またすぐ揺れるかもしれへんから和室から動くな!」気づくと息子たちに声を張り上げていた。

しばらく待って揺れが再び襲ってこないことに少し安心した息子たちが「情報を知りたい」と言った。そらそうやわ、不安やわな、と思い、リビングも倒れてくるのはテレビくらいやし、と、とりあえず家族でリビングに戻った。

テレビの向こうでNHKのアナウンサーは「今すぐ逃げること!」と怒鳴ってくれていた。

息子たちに、東日本大震災で、いかにたくさんの人たちが津波から逃げ遅れて犠牲に合ったのかを説明した。

「このアナウンサーの人は、みんなに助かってほしいから、強い口調で、声を張り上げている」と分かって欲しかった。

テレビから伝わる非常事態に、我が家にも津波が押し寄せて来るのではないか、と、息子たちが怯え出したので、ここは海から遠く離れていることを伝え、地震の揺れしか今は怖がることはない、ここに津波は来ない、と、言い聞かせた。

相変わらず、テレビの向こうではアナウンサーの方が、とても冷静に、でも、とても強い口調で「とにかく逃げろ」と伝えている。

この声をいろんな状況で耳にしている人たちがいる。この声で助かる人がいてほしい。でも、もうこの声すら届いていない人もいるかもしれない。

そう思うと不安で悲しくてつらくて涙が出そうになった。が、親が泣くと子どもは一気に不安になるので、必死に我慢した。

「なんで、元旦に」口から言葉が出ていた。

でも頭では分かっている。

自然に大晦日も元旦も、何もない。

だから、怖いのだ。

そのあと、18時過ぎまでテレビから流れてくる情報を目にしたが、見ていても今すぐここから私たちにできることは何もない。

東日本大震災の翌日、それこそ一日中テレビを見ていた私は、夜には涙が止まらなくなってしまい、夫から「もうテレビを見てはいけない」と言われて、自分がおかしくなっていることに気づいた。

 

そこで、息子たちにも「今ゲームをすること、楽しむことは決して悪いことではない」と教えて、一旦テレビを消して、それぞれゲームをしたり、本を読んだり、自分たちの好きなことをすることにした。

それぞれが好きなことをして落ち着いたころ、

石川県の羽咋市にある大好きな宇宙科学博物館コスモアイル羽咋のことが頭に浮かんだ。

羽咋市から金沢市に向かう途中に見た、海沿いの道路の景色が蘇った。

夜、ホテルから散歩した時に見た、金沢駅の美しさが目に浮かんだ。

賑わっていた金沢駅の駅ナカのお土産屋さんや、駅の上にあったスーパーでみかんを買ったことを思い出した。

 

どうか、どうか、と、心の中で願った。

 

その日は京都ではもうそれ以上揺れを感じることはなかった。

 

 

とりあえずなんとか眠りにつき、翌日1月2日は餃子の王将で昼ごはんを食べた。そのあと、買い物に行き、コメダ珈琲でお茶をした。

地震の被害に遭わなかった私たちは、少しでも日常を普段通りに過ごさなければならないと思っている。そして微力でも経済を回すしかない。

少し落ち着いたら、石川県に行って以来、しょっちゅう買っている金沢市の美味しいおかき「ビーバー」を、またたくさん買おうと思った。

f:id:zfinchyan:20240103143519j:image

めちゃくちゃ美味しい「ビーバー」 サックサクで、しょっぱすぎず旨みが詰まっている。

金沢以外でも売っているところを見つけたので、旅行以来よく買っている。これは、いつもお土産をくれる友人たちへのお礼に用意していたもの。

「ビーバー」は、誰に渡しても喜んでもらえるので、ほんのお礼やおうちに遊びに行かせてもらう時の手土産に持って行くことが多い。

(本当は年末に渡す予定だったけどインフルエンザになってしまったので、冬休み明けに渡すつもり)

 

 

1月2日の夜、テレビで飛行機が燃えている様子が映っていた。

 

 

その夜、息子(11)が寝る前に泣いた。

 

 

「なんで泣いてるかわからへん」と言いながら声を上げて泣いた。

とにかく抱きしめて、家族全員で声をかけた。

息子がスヤスヤと眠ったあと「連日、衝撃的なニュースが続き、この子の心は疲れてしまったんだ」と思い当たった。

守ってあげられなかったことを悔やんだ。

しばらくニュース番組は見る必要がないかもしれないとも思った。

 

このお正月に、この一年で起こる嫌なことが、先送りで起こっているだけだったらいいな、と思った。

そうじゃなかったら、帳尻が合わないじゃないか、と。

とにかく今は日常を過ごせることに感謝しながら、生きたい。