わたしのあたまのなか

わたしのあたまのなかの言葉を書きたい時に書く場所。覚えておきたい出来事やお出かけの記録、おいしいものについてもよく書きます。

最近食べて美味しかったもの

 

わたしは食べものの写真を撮るのが好きだ。

フォルダを眺めるとずらりと食べ物の写真が並ぶ。

というわけで、フォルダを整理するためにも最近食べて美味しかったものをここに残していきたいと思う。

 

大好きチョコレートシュトレン

f:id:zfinchyan:20241210095444j:image

シュトレンというものを好きになったのは、ほんの3年前のことだった。

それまでは洋酒の香りが強いものだと思って手に取っていなかった。

それが、このタカギベーカリーのシュトレンをスーパーのパン売り場で買って食べてから美味しさに目覚めてしまった。しかも、普通のシュトレンより、このチョコレートシュトレンが甘くてスパイスも効いていて最高に美味しい。

f:id:zfinchyan:20241210095452j:image

外はさくさく、ナッツがカリカリ、チョコレートもぽくぽくと、とにかく食感が楽しい。去年まではわたししか食べなかったのだけれど、今年は息子(9)も「美味しい!」と気に入ってくれたので、薄くスライスして、2人でちょっとずつ大切に食べた。(でもたった3日で食べ終わってしまった)

チョコレートシュトレンに出会ってからというもの、この季節になるとパン屋さんで売っているシュトレンが気になって仕方がない。いくつか買ってみたものの、結局このタカギベーカリーのチョコレートシュトレンに戻ってきてしまうのだった。

 

関西のお菓子

かまいたちさんのYouTubeの食べ物の回を見るのが好きで、家族と一緒に見ては「これ食べたいね」と、盛り上がるのが楽しい。

先日も関東と関西のお菓子の特集をしていた。今は全国のお菓子がネットで注文すればほとんど簡単に手に入るけれど、今回のYouTubeで取り上げた区分けの基準としては関東と関西、それぞれの出身者にとって馴染みのあるお菓子、また工場が東西のどちらかにあり流通しやすいもの、などで選ばれたようだった。

わたしたちは京都に住んでいるので、出かけたついでにあったスーパーに寄って紹介された関西のお菓子で気になったものを早速買うことにした。

f:id:zfinchyan:20241210095628j:image

わたしにとって身近なお菓子だったのは、満月ポンと黄金糖だけど、ここ最近ずっと食べていなかった。

久しぶりに食べた満月ポンは、言葉に表すと「さくさく、じゅわー」という感じで、おせんべいほど固くなくて軽く、それなのにすごく醤油が香ばしくて美味しい。息子たちも「満月ポンってこんなに美味しかったっけ?」と言って手が止まらない。

さて、わたしは実は鶯ボールを今まで食べたことがなかった。これもかまいたちのお二人があまりにも美味しそうに食べるので「食べてみようかな」と、買ったものだ。鶯ボールのコマーシャルは幼いころから見ていたものの、わたしはその名前から勝手にうぐいす豆のお菓子を想像していた。いわゆる豆菓子、それも豆の味が強い豆菓子のイメージだった。

夫は昔から家で食べていたらしくわたしの話を聞いて「全然ちがう」と、言った。聞くと豆は全く関係なく、米菓子だという。「なんかこう、おかきみたいでおかきじゃない、みたいな。甘いねん」と説明してくれるが、味の想像ができない。

とにかく食べてみたら、確かに!口の中でコロコロと転がせるほど固いけれど、噛むとぼりぼりとして甘じょっぱくて美味しい。噛めば噛むほどお米の甘さもじんわり広がる、本当に素朴な味だった。こんなにも美味しいものがずっと身近にあったとは...!

ちなみに息子たちが1番に開けて食べた黄金糖は、やっぱり大層甘くて美味しかった。自分が子どもの頃は、飴といったら那智黒飴か黄金糖だったなあ、と、頭に残る那智黒飴のあの甘さまで思い出すほど懐かしい味だった。

 

幻のお福餅

お伊勢さんに行くたびに食べたり買ったりするのは赤福だけれど、去年だったか「お福餅も美味しいぞ」という記事をどこかで見て以来ずっと気になっていた。

パッケージも同じような朱色で同じように餅がこしあんに包まれている。昔は三重周辺の上りと下りのPAやSAで赤福とお福餅が売り分けをされていたらしいけれど、いつの間にかお福餅の売り場はどんどん少なくなり、今ではどこでも赤福しか売っていないとのことだった。

当時、その記事を読んだあとお伊勢さんに行く機会があり、お参りのあとのおかげ横丁では見つけられず、お福餅が販売されているという二見も帰り道と逆方向のため、結局食べることはできずじまいだったのだ。

が、つい最近、枚方に少し戻った時に、国道一号線沿いに用事があり、ついでに買い物もして帰ろうかと夫がトップワールドというスーパーに連れて行ってくれた。ちなみにトップワールドは大阪に12店舗、京都にも1店舗展開しているらしい。

トップワールドは枚方の香里ケ丘というところにも昔からあって、わたしは枚方に住んでいたころ、そこによく行っていた。昔はトップセンターという名前で中が市場のようになっていて、とても活気があったのをよく覚えている。わたしは幼いころ、トップセンターに母とよく買い物に行った。帰り道にお豆腐やさんで豆乳を買ってもらって飲みながら帰るのが何よりの楽しみだった。そのため、わたしにとっては店舗は違えど懐かしのトップワールドだ。

さて、そのトップワールドでふらふらと買い物をしていると、赤福のようなものが目に入った。まさか、あれは...!幻の、お福餅じゃないか!

もちろんすぐにスッとカゴに入れた。ぐふふ、こんなところで出会えるとは。わたしはラッキーな食いしん坊だ。


f:id:zfinchyan:20241210095733j:image

f:id:zfinchyan:20241210095737j:image

なんでも、あのうねったあんころ餅の形もそれぞれに意味があり、赤福は伊勢神宮の中に流れる五十鈴川の清流を、お福餅は二見浦の波の形を表しているらしい。確かに、お福餅は二見浦の夫婦岩がパッケージに描かれている。(赤福のパッケージには、伊勢神宮にかかる宇治橋の欄干だ)


f:id:zfinchyan:20241210140331j:image

f:id:zfinchyan:20241210140334j:image

開けると良く似ているけど、やっぱり赤福とはちがう。由来を知っているからか、確かに餡が波っぽくていいじゃないか。

せっかくなので、トップワールドで買ったオリジナルのミルクによくあう紅茶と一緒に次の日の朝に食べてみた。うんうん、お福餅、いいね。中のお餅がやわやわで小豆の味がより濃い気がする。赤福も大好きだけど、お福餅もとても美味しい。

幻のお福餅を意外な場所で買うことができて、わたしの食べたいものリストのひとつがまた叶ったのだった。

ラーゲリより愛をこめて

 

最近好きになったもの、それは、Mrs.GREEN APPLEの歌だ。

わたしは普段歌を聴かないので、実はつい少し前まで(ファンの方々には大変申し訳ないが)「Mrs.GREEN APPLE」と「Official髭男dism」の区別がついていなかった。Mrsの歌を遡って聴くようになり「あ、この歌はMrsが歌ってたんや」などと知ったくらいの薄くて浅い人間である。(ちなみにOfficial髭男dismの歌で好きなのは午後の紅茶のCMで流れる曲だ)

さて、わたしがMrsの歌で初めに、いい歌だなと思ったのは息子(12)が好きだと言う「ライラック」を聴いたのがきっかけだったけれど、あれこれ聴き漁っているうちに「soranji」という曲に出会って衝撃を受けた。

なんだ、この歌は。聴いているうちにじーんとして涙が溢れた。生きて欲しい、という気持ちが伝わってくる。生きないといけない、と強く感じる。でも圧がない。温かくて優しい。高音が続くのに全然苦しそうではなくむしろ伸びやかで、聴いているうちに気持ちがしん、と落ち着く。聴き終わったあと、階段を登った気がした。

その日から毎日「soranji」を聴き続ける毎日だったけれど、ある日、この曲がひとつの映画の主題歌だったと知り、俄然そちらも気になった。

この歌と内容がリンクしているのだろうか。だとしたらそれは一体どんな映画なのか。歌だけでもこんなに感動するのに。これは映画を観て初めて完成する歌だとしたら、わたしはそれをやっぱり知りたい、そう思った。

というわけで、観たのが映画「ラーゲリより愛をこめて」だ。

第二次世界大戦の混乱の中、最愛の妻と子どもたちと生き別れ、中国のハルビンで現地の兵士となった山本幡男は、終戦後捕虜としてソ連の収容所(ラーゲリ)に拘束される。ロシア語が堪能だった山本は通訳としてソ連兵と日本兵の橋渡しとして活躍しながらも、終戦後も解放されることはなく、きつい労働を強いられていた。

ある日、やっと解放され日本に帰国(ダモイ)できることになり、シベリア鉄道に乗せられたが、途中で列車は停まり山本と他の一部の兵士だけが降ろされた。彼らはそこからさらに寒さの厳しい地、シベリアに送られ今までよりもつらい強制労働をさせられるのだった。

映画が始まる前に「この物語は事実に基づく」という文字が出た。ふんふん、そうなのね、と思いながら観続けるうちに、あまりにも非情に長く続く苦しみの日々に「これが本当にあったことだなんて…」と、冒頭の「事実に基づく」という言葉がボディーブローのように体の奥に重く響いてきた。

戦争が終わったというのに、いつまでも日本の地を踏むことができない彼らは、食事も娯楽も理不尽に制限され続け、極寒の地で人間としての尊厳も踏み躙られながら、終わらない強制労働の日々。それが、何年後まで続くかもわからないまま毎日、毎日、ずっと。

ここからもう逃げられないのなら、と、自ら死を選ぶ方が楽なように思えるほどの当時の過酷な状況の中、二宮和也さんが演じる山本幡男という人は決して希望を忘れない。人の嫌な部分を見ても、人の心の暗い淵を知ったとしても、そこにある小さな希望を見つけて生きる。その生き様が強く美しくも哀しい。

シベリア抑留のことを知ってはいても、映像で知るとさらにショックだった。これは「戦後の混乱の中起こった不幸な出来事」と、説明するにはあまりにも酷い。当時を知る人はどんどんこの世を去り、忘れられて、まるでこんなことが無かったような時代になると、また繰り返されるのではないか、と、不安になるほどだった。

 

「soranji」という歌の全てが知りたくて観た映画だったけれど「soranji」と同様にこの「ラーゲリより愛をこめて」という作品は、わたしの中で忘れられない映画になった。

そして、またこれを観たあとに「soranji」を聴くと、ああそうか、この歌詞はあの場面を表しているのかな、などと映画の1シーンが浮かび、またぎゅっと胸が切なくなるが、この歌のおかげでいい映画に出会えたので観てよかったな、と思う。それから、わたしは今日も耳にイヤホンをつけてじっくりとMrs.GREEN APPLEの歌を聴いて落ち着いたり踊ったりして生きるを体現するのだった。

ドキドキ夜道

 

息子(9)が夕方習い事に行くため、徒歩で送り迎えをしている。今までは息子が習い事に行っている間に1人で散歩を楽しんでいたけれど、最近日が落ちるのがすっかり早くなってしまったので、大体は送ったあと一旦家に帰り、また歩いて迎えに行くようにしている。

夕方と言えども、迎えに行く時間の18時すぎにもなると、外は真っ暗。まるで20時とか21時のように空は深く、人はほぼいない。もう少し明るければ犬のお散歩をしている人達もちらほら見かけたけれど、冬のこの時間はいつもシンと静かで誰も歩いていない。

ある日、迎えに行く道の途中の突き当りに人影があった。わたしはそこの突き当りを左に曲がらなければならない。手前にある街灯のせいで逆光となりハッキリとは見えないがシルエットは男性のようだ。体は丸く大きく、なんとなく仁王立ちをしているように見えた。わたしの愛するサバイバルホラーゲームDead by Daylightに出てくるクラウン(ピエロ)のような体型だ。ガスの詰まった小瓶を投げられたらどうしよう。いや、ばかなことを考えている場合ではない。

わたしが近づいているのはわかっているはずなのに、仁王立ちのまま動かない。右から通り抜けようか、いや、左からがいいか。でもなぜ仁王立ち…?念のために右手で固く拳を作りながら、男性に近づく。やっぱり怖いので「こんばんは」と、思い切って先に声をかけてみたら、男性はやっと少し体を動かして道を譲ってくれて、「こんばんは」と、返してくれた。ふー、怖かった。なに?この人は門番なのか?

こんなことがあったため、それ以来小さな懐中電灯を持って息子を迎えに行くことにした。懐中電灯の明かりを下に向けながら歩くと、暗い夜道にまるでわたしの周りに光のバリアができたように感じて心強い。

ある日もまたお迎えのため歩いていると、道の途中にある丁字路に差し掛かった。そこに近づくまでは気づかなかったけれど、丁字路の真ん中にいつのまにか人が立っていた。それは、びっくりするくらいの赤いニットのようなものを着たおばあさんのようだった。あまりにも鮮やかな赤だったので、他はショートカットだったことしか覚えていない。なんで、そんな赤い服...一体、どこで...

ふと、そのおばあさんが連続殺人鬼でその赤い服は今まで浴びてきた返り血をたっぷりと吸ったニットだったらどうしよう、と、頭に浮かんだ。わたしのこの無駄な想像力のせいでその赤い服が不気味に見えてくる。いやいや、ただのおばあさんだ。通り過ぎる時、そっと様子を窺ったら、わたしのことなど眼中になく、遠く空の方を見ていた。他に何もなくただじっと空を見ていたので、こんばんは、と声をかけるのも憚られた。

なーんだ、夜の空を眺めていたのか。丁字路の真ん中で。真ん中で?まあ、謎は残るが車の通りも少ないし、道路の真ん中で見たくなったのだろう。夜道に赤すぎる服が不気味だっただけで、きっと明るい場所で見たらきれいな赤なんだろうし。

さて、自分でもどうかと思うが、迎えに行くのに近道なので、途中で公園を横切ることがある。最近の公園は周りの住宅に配慮してか、電灯が少なくて暗い。なんだかポツンとした光が見える...と、思ったらベンチに座っていた人のタバコの火だったことがある。それくらい暗い。でも、ここを横切ると近いので、どうしても通ってしまう。

ある日もまた1人で公園を横切っていると、視線を感じた。ふと公園の中に目をやると、うんていにぶらさがっている細い細いおじさんがいた。ただ暗いので、おじさんはたまたまわたしの方に体を向けていただけで、わたしを見ていたかどうかまではわからない。18時だし、食後の運動かもな、と思って、通り過ぎた。

そしてふと思った。あれ?あのうんていって大人がぶら下がるには低くなかった?振り向いて確認しようかと思ったけどやめた。きっと、膝を曲げてぶら下がっていたにちがいない。そう思おう。

 

もちろん迎えに行くということは、そのまま息子とまた同じ道を通って家に帰るのだけれど、わたしが会ったこれらのちょっと変わった人たちは、幸いなことに息子と一緒に通る時には姿を消している。彼らは一体なんなのだ。もしかしたら一人で暗い道を歩くわたしを見守ってくれているのかもな、と、どこまでもポジティブに考えたけれど、やっぱり怖いので、最近防犯ブザーも持ち歩くことにした。そして、公園を横切るのはそろそろやめようとも思っている。(でも近道)

暑がりのわたしは冬が大好きだけれど、夜道を歩く時だけは、いつまでも明るい夏の夜が恋しくてたまらなくなるのだった。