伯父が亡くなった。
伯父とはわたしの母の兄のことで、今年に入ってすぐ入院していたそうなので、亡くなった時もそこまで驚かなかった。むしろ母から「もうそろそろかも」と何度も聞いていたので、よく頑張ったなあと思ったほどだ。
実は、わたしはこの伯父と会った回数はこれまでで10回にも満たない。それも、最後に会ったのは、確か10年前に亡くなった祖母のお葬式の時だった。
わたしが幼い時、伯父家族は千葉に住んでいた。伯父とのことで覚えているのは、わたしが小学2年生の時の祖父のお葬式のこと。大勢来た親戚の中で唯一伯父だけがわたしや弟や他のいとこたちをおもちゃ屋さんに連れ出して、おもちゃを買ってくれた。
ふくよかで、おおらかで、お菓子をよく食べていた。関西弁を話すわたしたちと違ってやわらかな関東弁を話す伯父は「優しい人」としてわたしの記憶に残った。
ただ、そのころから、伯父は数年おきに一人で祖母の家に来るようになった。伯母と祖母の仲がうまくいかなくなったのだ。それもお正月やお盆に合わせて来るわけではなかったので、わたしはほとんど会えなかった。母も毎回は会えてはいなかったと思う。
わたしが25歳を過ぎたころ、伯父家族は仕事の都合で北海道に引っ越した。ますます遠くなったので伯父たちと会うことはもうないのだろうと思った。
そして、時は経ち、わたしが結婚をしたころ、祖母は入退院を繰り返していた。その数年後、伯父夫婦は突然北海道から枚方市にある祖母の家に引っ越しをしてくることになった。祖母から家をもらう約束をしていたと言う。それから祖母の思い出の詰まった家を建て替えることになった。
祖母が大切にしていた小さな庭も、祖父のお仏壇があった静かな仏間も、全部消えた。しかも、新しい家の玄関には階段が付け足されていた。どう見ても足の悪い祖母のことを思って建てられた家ではなかった。
完成した新しい家の祖母の部屋はたった4畳半で、しかも、リビングから離れた場所に作られていた。さらに伯父は母に、祖母の遺産は兄である自分が多くもらうべきであると迫るようになった。そのたびに母は「お兄ちゃんはあんな人じゃなかった」と、嘆いていた。わたしには、どれが本当の伯父の姿なのかは、もうわからなかった。
そのあとすぐに祖母が亡くなり、その真新しい家で伯父夫婦だけが暮らし始めた時、伯父から困り果てた声で母に電話がかかってきたそうだ。
「家の中を、擦り足で歩き回るような音が聞こえるんだ」
母と、母から話を聞いたわたしはピンと来た。それは、足が悪かった祖母が室内を歩く時の音だった。不謹慎かもしれないけど内心(いいぞ、いいぞ、ばあちゃん!)と思った。祖母を、そして祖母の面倒をずっと見ていた母をないがしろにした罰だ、と。
さて、そんな伯父の最期は、食事もとれず、透析の繰り返しで、前のまん丸とした大きな体が嘘のように痩せ細って小さくなり、でも意識だけははっきりとあったので、ずっと病室の天井を眺めているつらい日々だったという。ただ、死の間際は伯母といとこと孫たちに囲まれて穏やかに亡くなっていったそうだ。
わたしにとって伯父とは「昔は優しかった人」でしかない。結局一度も伯父のお見舞いには行かなかった。
だけど、そのせいで、弱った伯父を見ていないから、恰幅がよく黒々とした髪を生やした大昔のあの伯父の姿しかあたまに浮かばないのだ。
同じく元気だったころの祖母に「あんた、もうそんなに食べたらあかんよ」と言われているのに、森永のチョイスのクッキーをポロシャツの胸のポケットに2、3枚くすねて、それを見ていた幼かったころのわたしの顔を見て共犯者のようにニヤッと笑った、あの優しかった伯父の姿しか、わたしのあたまには浮かばない。
今、わたしの家には祖母が亡くなった時にもらった温度計がある。これは、祖父母が家を建てた時からずっとリビングの壁に掛けられていたものだという。わたしは、祖母が亡くなって10年経った今もまだ、自宅の壁に掛けられず棚の上に立てかけたままでいる。もらったものだけど、預かったもの、のように感じてしまう。
伯父が亡くなって久しぶりにこの温度計をゆっくりと眺めた。わたしにとって伯父は親戚だけど、一体どんな人なのかわからないままだった。
母は「今ごろおかあちゃんと楽しく話してるかな」と言った。わたしは「そんなことない。あの世でばあちゃんに追い回されて話を聞かされてうんざりしてるはず」と思った。そうであってほしい、のかも知れない。

祖母の家、といえばこの温度計だった