たまに一人で電車に乗って出かけることがある。
中でも、京都のとある場所に向かう電車に乗る時は、わたしは進行方向の左側のドア付近に立ち、じっと車窓風景を眺める。別に、壮大な景色を楽しむわけでもないし、珍しい建物があるわけでもない。わたしが楽しみにしているのは、その電車が走る線路沿いにある白い大きな家を見ることだ。
初めて電車の中からその家を見た時、その家の大きさと眩しいほどの白さに目が離せなかった。絵に描いたようなお金持ちの家。けれど、道と家を隔てるような大きな門などなく、ガレージにも屋根はない。まるで、古い家が並ぶその町に溶け込むことを意識しているかのように、高い塀や門がない大きな白い家は、わたしの目を引いた。
もちろん電車の中から見るだけなので、わたしがその家を眺めることができるのは、せいぜい3秒程度のものだ。だけど、なぜかわたしはいつもこの電車に乗る時は、必ずあの家を見てしまう。いや、見てしまう、どころではない。むしろ、あの家を見ることを楽しみにしてしまう。
そしてわたしは想像する。あの家にはどんな人が住んでいるのだろう、と。
いつ見ても、屋根も壁も真っ白でひとつの汚れなど見当たらない。実のところ、ここ数年、その方向に行く電車に乗るたびにあの家を見ているけれど、外壁塗装をされているところなど見たことがないのに、ずっと眩いばかりの白さを保っている。
もしかしたら、定期的に短期間で済むようなハウスクリーニングをしているのだろうか。それとも、家主が高圧洗浄機などでこまめにメンテナンスをしているのかも知れない。
それに、ガレージには立派な車がいつも2台止まっている。ということは、電車かバス通勤なのだろうか。いや、通勤用の車が他にあるのかも。そういえば、広いガレージにはまだまだ車を停める余裕がある。
ああ、一体、どんなお仕事をしている人たちが住んでいて、そして、どんな生活をしているのだろう、と、わたしはいつもその家を通り過ぎたあとの車内で想像をする。
外から見てもあんなに綺麗な家なのだから、きっと家の中もいつも美しく保たれているのだろう。家主は部屋着など着ない人で、いつもシャツとベルトを通したパンツを履いて、もしかしたら家の中でもキチンとジャケットも着ているのかも。きっと、それでも堅苦しい印象などを与えずに着こなせるのだろうな、などと想像は膨らむ。
家の中には生花が欠かさず飾られていて、あのたくさんの大きな窓からは高い天井にまで陽が差し込み明るいはずだ。ホテルのロビーのような統一感のある家具に囲まれて、こだわりのオーディオ機器からはクラシックが流れていて、無駄のない上質な食事を摂る生活…。
と、わたしの乏しい想像力では大体このくらいで、いつも止まってしまう。
なぜならば、わたしはそんな上流な家庭の出身ではないし、今現在もそんな優雅な暮らしはしていないからだ。
小さなリビングの部屋には、大体いつも息子たちの本や、ゲームのコントローラーなどが落ちて散らかっているし、わたし自身も帰宅後はゆったりした部屋着にすぐ着替えてのんべんだらりと過ごしてしまう怠け者。
結局、だらしのないわたしは、あの白い家に憧れているのではなく、その先にあるキチンとした生活に憧れているのだろう。優雅な暮らしにも憧れはあるけれど、あの家の美しい白さを保ち続けることのできるちゃんとした人、に、わたしはなりたいのかも知れない。
だからと言って、今すぐあの家とこの家を交換してやろうか?と、もし悪魔が囁いたとしても、きっとわたしはうなづくことができない。
わたしの家は、小さくて狭くて古い家だけど、ここでたくさんの思い出を作ってきた。色褪せすぎて、もはや何色とも言えないような外壁にはヒビもあるし、時々、雨漏りもするけれど、台風にも地震にも耐えて、わたしたちを守ってくれた。憧れの白い家には程遠いけれど、それでも、この家はわたしたちの城だ。帰った瞬間、みんながホッとする場所。自分たちの成長と思い出が詰まった小さな家。家族が並んでゴロンとなるのにちょうどいい大きさのリビング。
そうやって、ちょうど家や家族が恋しくなるころに、わたしを乗せた電車は目的地に着く。さあ、用事をさっと済ませて早くわたしの家に帰ろう。もちろん、また帰る時は右側に立ってあの憧れの白い家を眺めよう、と心に決めて、電車から降りたわたしは人混みに紛れていくのであった。