仕事に行き始めて約1ヶ月が経った。
毎日出勤していないせいもあるけれど、相変わらずわたしはまだまだ人の名を覚えられず、ひたすら周りの人達に「あの...」と、声をかけて尋ねてばかりいる。ちなみにわたしが間違えずに声をかけられるのは、教頭先生と校長先生だけ。ちなみに、どちらの先生も苗字については覚えていない。
わたしの仕事である学校の雑務のうちの一つに、子どもたちの授業の補佐に入ることがある。子どもたちはわたしのことを〇〇先生と呼ぶ。わたしは教員免許を持っているわけでないので、本来は先生などと呼ばれるような身分の人間ではない。授業の補佐に入った当初は、いつも息子たちのお友達の前で自分のことを指す時のように「おばちゃん」と言いかけたけれど、よく考えるとおばちゃんが授業中うろうろしているのはおかしいので、やはりこの空間では先生と呼ばれるのが正解なのだろう。
とは言え最初は「先生」と呼ばれることに、いつも申し訳ないという気持ちがどうしても湧いた。申し訳ないというか、後ろめたさのようなもの。いくらそれが便宜上の呼び名でも、わたし自身は今までもこれからも先生などと呼ばれるような人間ではないと、戒めのような思いがあるからだろう。
初めはいちいち心の中で「先生じゃないのに、申し訳ないな」などと思っていたのだけれど、慣れとは怖いもので、最近では「先生」と呼ばれても迷いなく「はい」と返事ができるようになってしまった。しかも子どもたちにも「あ、これ先生がしまっておくね」などと言ってしまえる。わたしは、意外と適応能力があるのかも知れない。いや、図々しいだけか。
さて、わたしは補佐に入っているだけなので、子どもたちがきちんと授業についていけているのか声かけをしたり、(本物の)先生の授業がスムーズに行われるようにあれこれ準備や片付けをする程度の仕事しかできないが、それでも人に何かを教える現場に身近に立つと、これが本当に大変なことであると日々痛感するし、保護者ではない立場で見る授業は視野が全然ちがうし、こんな年齢になってからも新たな経験ができる特殊な機会をいただけて本当にありがたいことだと思っている。
声かけひとつでも、この子は今何を考えているのだろう、と仕草や目線を見ながらかける言葉を考えなければならない。明らかに言われたことを出来ていない状態でも、やらないから出来ていないのか、したくないから出来ていないのか、それともどうしても出来ないのかによってかける言葉が変わってくるなあ、と、日々考える。
自分の息子たちになら「なんで、やってないの?」とストレートに聞けたり、「やらんかい!」と強く言いがちだったけど、それではいかんのだ、と、最近は息子たちへの声かけにも気を遣えるようになり、それはまた新しい発見でもあった。
ところで、わたしは、子どもたちにとってはきっと得体の知れない先生であることはちがいないので、常に優しさを持って声をかけることを第一に考えて行動するようにしているのだけれど、そうすると、思わぬところで舐められてしまったり、無視されてしまうこともある。そんな時、自分の息子たちになら「ごるぁ、聞いとんのかー!」と、言ってしまうところだけど、そんな言葉を発したものなら、子どもを傷つけてしまうし、わたしは二度と教室に出入りできなくなるだろう。
かと言って舐められるのはちがうよなーと、何が正解なのか、いつも仕事が終わった帰り道にモヤモヤとする。構ってほしいからあんな態度を取るんやろうなーと、思ったり、わたしの声かけは適切やったんかなーと、思ったりする。もちろん(本物の)先生も見てくれてはいるけれど、ただの補佐でも神経を使うし、なかなか心が削られる場面もある。
物事全般において、やや気にしすぎがちなわたしには、ちょっと向かない仕事かもな、とは薄々感じつつも、こんな経験はなかなか出来ないことだし、期間が決まっているお仕事ではあるので、にわかの「先生」は、自分と子どもたちのために、また明日もがんばろう、と、1人お風呂の中でモヤモヤのため息とやりがいの深呼吸をつくのだった。