Xのアプリを勢いで消してしまった。
消してしまった、というか、ついに、消すことができた。
Xを開くと、いつも誰かが喋っているし、いつも何かが流れてる。顔も知らない誰かがふと呟いた言葉が自分の中に入ってくる。名前も知らない誰かがふと呟いた心配事が、世間の心配事のように大きく思える。そんなに影響される性格なら見なければいいだけなのに、自分に甘いわたしは、暇な時につい開いて時間を溶かしてしまっていた。
「もしかしたら、わたしは知らないままでもいいことを知っているだけなのか?」ふとそんな風に感じて「えいっ」と、思い切ってアプリを削除した。今まで閲覧時間を制限したり、iPhoneの一番端のページに追いやって見にくくしたりと色んな工夫をしながらも、災害時に使えることを言い訳に消すことはどうしてもできなかったのに、これ以上、人々が呟く言葉の洪水の中にいることが嫌になってしまった。
削除してからの一週間は、消してしまった後悔と、戻してしまいたい衝動にずっと悶々とした。今までは、Ⅹを開けばいつでも誰かがぼそっと呟いていて飽きることはなかったし、賢いAIが注目の話題に関係のある呟きを延々と流し続けてくれる。芸能人や政界の黒い噂、世界が注目する新しい話、ニュースでは報じられないこの国の真相。眠れない夜、一人でそれらを眺めていると、シンと静かな部屋でもいろんな呟きが聞こえてきて、飽きることはなかった。
「今Ⅹを開いたらおもしろいことになってるんだろうなあ」と、削除してから何度も何度もアプリを復活させたい気持ちになったけれど、今その思いのままに再びⅩを開いたら、わたしは二度とⅩから距離を取れない人間になってしまう。そんな気がしたので必死に我慢した。
一週間が過ぎて、若干の物足りなさにも慣れてきた。朝のニュースを見て気になったことがあった時に「ああ、Ⅹで追加情報を知りたい...!」と、思わなくもないけれど「いや、ちがう。わたしは何かを知った気になりたいだけなんだ」と、自分に言い聞かせているうちに衝動的に復活させたいとは思う気持ちが薄まってきた。
Ⅹから離れて二週間が経つ今、携帯のスクリーンタイムは確実に減り、わたしのあたまのなかは少しだけ静かになった。実のところ、今でもまだあの騒がしい画面が懐かしいし恋しい気持ちはある。テレビやネットニュースだけでは知ることのできない世界をこっそりと覗きたくなる。Ⅹをやめたことはもしかしたら損なことで、わたしはますます無知になる一方かも知れない。
だけど、と思う。だけど、Ⅹをやめたからって人生つまらなくなった?困ったことになった?答えはNOだ。ただほんの少しの刺激がなくなってしまっただけで、逆に誰かの心配事に不安を覚えることもなく、誰かの悪意に触れることもなく、目の前のことにだけ集中することができるようになり、不自由することはない。
Ⅹは、わたしにとって、限られた狭い世界の日々の暮らしと、外の広く新しい世界を結んでくれるツールだった。わたしと同じように初めての育児に悩むお母さんたちのつぶやきにホッとしたし、政治に怒る声を知り、海外の俳優さんのひとりごとを聞けた。それは、ここではないどこかの世界の街角で起こった事件を知れて、流行に敏感でいられるような気に、なれるものだった。
でも、今はちがう。削除してからというもの、観たい作品を観る時間も増えて、本だって読む時間が増えた。Xをやめて、Xから聞こえてきていたいろんな人の声に心が疲れていたことを実感した。そうだ、わたしは疲れていたんだ。
さて、わたしはⅩを2009年ごろからしていたので、約16年間使っていたことになる。
この16年の間に、twitterからⅩへと名前が変わり、翻訳機能がついて、動画が投稿できたり、フォローしている人たち以外の呟きが流れるようになり、広告が流れたり、と様々な変化があった。人々の小さなひとりごとはいつしか世界を動かす大きなものになる現象も増えた。そんな風にⅩだって変わったのだから、わたしも変わったっていいころだ。
ただ、思い切ってアプリを消しただけだから、今もわたしのアカウントはまだあの騒がしい世界にある。アカウントを削除するためにもう一度ログインしたら、きっとまた目まぐるしく情報が溢れる世界にどっぷりと浸かってしまうから、そのままにしておこう。
あの騒がしい世界に置いてきてしまったわたしのお気に入りのアイコンを想像すると、少しだけ頬が緩む。

「母の日に何もできなかったから」と、次の日になって息子(13)が買ってきてくれたカーネーション。大きな花瓶しかなかったので、また一輪差しを買おう
昨年もⅩを見る時間を減らす工夫をしていた