ぽーんと放り出したい出来事や感情をだらだらと書いてみる。
モバジュ―
息子(12)に「モバイルバッテリーは入れたの?」と尋ねたかったのに「ほら、アレは入れたの?」と言葉が出なかったので横着して「アレ」と濁して聞いてみたら「なに?モバジュ―のこと?」と、言われ、それがモバイルバッテリーを指しているとはすぐに理解できず、キョトンとしてしまった。
なに?モバジューって??
ああ!モバイル充電器のことか!モバ充ってことね。でも、略するならバッテリーとか充電器とかでいいんじゃないの?今時の子はモバジューって言うんや!!と、初めて聞いた略語に思わずゲラゲラ笑いながら言うと「パパもモバジューって言ってたけど?」とクールな息子が言った。
え?ほんま?
ちなみに夫はわたしと同い年だ。いつどこで若者の言葉を取り入れてきたのだろうか...降って湧いてきた疑いの眼差しを先に息子(9)と一緒に寝ていた夫の方に向けると「みんな普通に言うやろ」と息子(12)から言われた。
あら、そうなの?じゃあわたしもこれから「モバジュ―」って言っちゃおうかしら。普段家からほとんど出ないし、家族以外と長時間遠出もしないから、あまり日常で「モバジュー持ってる?」とか「モバジュー貸すよ」とか言う機会もないけど。
目に意識を持つ
コロナ以降、マスクを着用するのが常になりわたしが意識するようになったのは目だった。今までは、人とコミュニケーションを取る時に、口で感情を表現していたけれど、それが隠れてしまった今は、顔の中で唯一出ている目に感情を出すようにした。
その時、いつも脳裏によぎったのは、元バスガイドの知人の顔だ。
わたしよりも5、6歳ほど年下だった彼女とは、もう15年ほど前にたった3回だけ会ったきりだけど、初めに会った時に「こんにちは」と、言った笑顔は、目じりがじわっと下がってとても印象に残った。
不自然じゃなく、作り笑顔でもなく、優しい人柄の雰囲気が表情から伝わってきた時「あ、この人は目の表情を作るのがうまいんだ!」と、気づいた。話すたびに、相槌をついてくれるたびに、目が大きくなったり、目じりが下がったり、表情のふり幅が大きく「話を聞いてくれているんだな」と、安心する。きっと職業柄なんだろうな、と、その時は思っただけだったけれど、マスク生活が始まってから、わたしは時折彼女の顔を思い出しては目じりをじわっと下げて、喜びや親しみを伝えるように意識している。
彼女と最後に会ったのは、京都駅の新幹線乗り場だった。今は2人のお子さんに恵まれて京都から離れて暮らしていると聞いたことがある。あの温かく愛らしい笑顔で今日も元気に過ごしていますように。
またね
LINEの文末は「またね」と書くように決めている。
どんなお友達でも、母や叔母への文末もそう。ただし夫の母へは「またね」ではちょっと偉そうかなと思い「では、また!」と書くが、込めている意味は同じだ。
次の約束がなくても、逆にすぐにまた会うとわかっていても、それが1年に1回だけお誕生日を祝い合う仲でも、残念ながらしばらく会えないことがわかっている相手でも、LINEのやりとりの最後は必ず「またね」
そう書くと、またきっと会える気がするし「楽しかったね」「いつもありがとう」の気持ちがより強く伝わる気がしているのだ。
そもそもわたしは誰かと会う前はしんどいと感じることが多いのに、会ったあとは楽しかったな、会ってよかったな、と思うことが多い。そんな身勝手なわたしの「またね」は、会う前にモヤモヤしたりほんの少しの面倒臭さを抱えたことへの懺悔なのかも知れない。
さて、先日ようやく息子の学校の役員の年内最後の会議が終わった。
年内はすごく忙しいけれど、それが過ぎればほぼやることはないから!と、前年度の役員から引継ぎの時に聞いて安心していたのに、年明け以降のスケジュールを確認したら、まだまあまあの忙しさが続くことがわかった。今まではとりあえず目の前の仕事だけ見ていたので、気づかなかったけど、おいおい、聞いてた話と違うじゃないか。
仕方がない。とにかくやるしかないのだ。
みんなでそんな気持ちを抱えながらも、役員会議の最後はいつものようにお互いが持ってきたお菓子が飛び交い、気づいたら自分の席の前にお菓子の小さな丘が出来上がっていた。やったー!
帰ってからお菓子のお礼や確認事項などをグループLINEでやりとりしたあと、やっぱり最後は「またね」と、入れた。
またね、また来年もがんばろう。
また、お菓子持っていくからね、いい年末を過ごしてね、またね。
そんな気持ちを込めながら。
いただいたお菓子を帰ってから息子(9)と一緒に食べた