ずっと観たい映画があった
まず自分の身の周りのものを全てコンテナに預け、からっぽの部屋で過ごす。
モノは一日に一つだけ必要なものを取って来ることができる。
新しくモノは買わない。
それを一年間続ける。
そうして、自分の生活に何が欠かせないのか見極めるという監督自らが体験する実験的な映画、それが「365日のシンプルライフ」だ
もう、一度部屋のものを全て外に出してしまいたい!!
部屋を片づけられない人間は、そんな風に考えたことがないだろうか?私は、もちろん幾度とある。身の周りにあるモノは全て自分で選んで買ってきたというのに、片付けても片付けても、家のあちこちで雑音が鳴っているように統一感のないモノが目についてイライラする時がある。
そんな時に出た旅先で、最低限しかモノのないホテルの居心地のよさに驚いてしまう
自宅よりもコンパクトなのに広く感じる。そこに雑音はなく、目にも気持ちのいい穏やかな光が引き立ち、集中できる、気がする。あーホテル暮らしもいいなあ、などと夢見る。
しかし、私のような人間はいくらホテル暮らしをいざ決行したとしても、一週間もすれば部屋にモノが増え、たちまち逃げ出したくなるのだろう
この映画の主人公の青年ペトリは、寒い冬のフィンランドで裸にコートだけを羽織り、家の全てのモノを近くのコンテナに預けて、床で寝起きする生活からスタートする。ベッドがなくても眠れる。冷蔵庫がなくても窓際に食料を置けばしばらくはもつ。一日に一つだけコンテナから今まで使っていたものを何でも持ち込めるが、なかなかそうはしない。
なぜか。
私は何もない生活などなかなかできないからであると思う。ある種ハイになっているというか、何もない生活の不便さが快適になっているのではないかと思う。一日それで生活できれば、二日目、三日目もできるじゃないか。だんだんそんな気持ちになってくる。
だがしかし、やはり硬い板の上での寝起きはつらく、やがてベッドマットを持ち込むと、あまりの寝心地のよさにこうつぶやく
「いつもこんないい気分で眠れたらいいのにな」
けれど、ずっとハイだった彼はこのあと塞ぎ込むようになり、10日以上コンテナにも行かない生活を送るようになる。ハイの反対、いわゆるローの状態である。
このシーンまでを観ていて、なるほどなあと思った。
私は普段生活していて、何が必要か不要かなど深く考えずに散らかりつつある部屋で暮らしている。しかし、実験中の彼は何が必要なのか、本当にそれは生活に必要であり続けるものなのかを常に考えている。一日だけ仮に使ってみてコンテナに戻すなどということはしない。パンツ一枚シャツ一枚でさえ真剣に悩む。そうすると、きっと頭の中はぐるぐるになって疲れてしまう。だからこそ私は考えることをやめてしまい、直感でモノを買い、そしてそれは増えているのだと思った。
例えば、ドラッグストアでの買い物は楽である。
今使っているモノのストックを何も考えずに買う。もうすぐなくなるであろうから悩まずに買っておく。家にもしかしたらまだ新しい歯磨き粉はあったかも知れないが、どうせ使うのだろうから、と買って持って帰る。あれば使うだろう。今日買わなければまた忘れるだろうから買っておこう。
ドラッグストア以外でもそのような買い方をいつしかしていたことで、私は家のモノを増やしてしまっていたのではないか、と自問した。
買う前に考える、悩む、やめてみる。
私はそんな大切なことを端折っていたのではないだろうか、悩むふりだけしていたのではないかと、思える映画だったのである。
ところで、主人公の彼はいつまでもローではない。
少ないモノの中で、周りの友人に変わり者扱いをされながらも、彼らに助けられて、新しい生活の一歩を着実に進み始める。不便なことすら楽しんで、モノを買わずに工夫して都度起きる面倒な問題を乗り越えていく。そんな姿が非常に爽快で前向きだ。
モノを削ぎ落として生きることは非常に面倒くさい。削ぎ落とすという目的に縛られるからである。
しかし、少しくらいモノと真剣に向き合う時間が増える方が、モノを減らす近道でもあると思う。ときめく、ときめかない、で決めても何でもいい。とにかく少しは考えるということをしなければならないな、と、思う。
なぜか新しいことを始めたくなる春の装いにぴったりの映画であった。